| 社員の幸福と企業の成長の両立をめざして 辻田昌弘
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| はじめに−日本型雇用形態の破綻 終身雇用と年功賃金を特徴とするいわゆる「日本型雇用形態」は戦後のわが国の高度成長を支える基本システムとして一時は高い賞賛を受けたが、九〇年代以降の日本企業を取り巻く環境変化の中で、いまや一転してその限界が露呈し始めた。 日本経済が高度成長から低成長に移行したことに伴い、多くの企業において業容の拡大が困難となり、年功に応じた処遇(=ポスト)が提供できなくなりつつある。そもそも日本型雇用慣行は企業の成長・拡大が続くことがその大前提にあり、前提が崩れれば維持できなくなるのは当然である。日本型雇用慣行の破綻は特に高度成長期に大量採用された現在の中高年層にとって厳しいものとなるが、かといって終身雇用・年功賃金を無理やり維持しようとすれば、それは若年層の採用抑制というかたちで企業の人員構成をさらに歪んだものにしてしまう。また、トップヘビーの人員構成がもたらす高コスト体質のままでは、経済のグローバル化に伴う世界規模でのコスト競争に立ち向かえないこともまた明らかである。一方、日本型雇用慣行に基づく閉鎖的・硬直的な企業組織は組織としての柔軟性に欠けるため、経営環境の不確実性が高まる中で求められるいわゆる「俊敏性(アジリティ)」という点からみても問題が多い。 かくして、当初は新規採用の抑制、早期退職制度の導入、ベースアップの抑制等による総人件費の削減という、いわば「消極的な」リストラ策によって対処しようとした日本企業も、ここに来てようやく、「選択と集中」、即ち自社がコア・コンピタンスを有する領域に人的資源を含む経営資源を集中し、それ以外の領域からは撤退あるいはアウトソーシングするという、いわば「積極的な」リストラに取り組まざるを得ないことを認識し始めた。 事実、総務省の労働力調査によれば、雇用者(役員を除く)に占める非正規社員(パート・アルバイト、派遣・契約・嘱託等)の比率は九七年頃から急上昇し直近では二八%に達しており(注1) 、労働力のアウトソーシングが進みつつあることが伺える。その一方で、例えばオリンパス光学工業の「オリンパスカレッジ」やトヨタ自動車の「トヨタインスティテュート」のように、社員の早期選抜・育成システムを導入する企業も増えており(注2) 、企業は人的資源の「選択と集中」へと、人事戦略の舵を大きく切り始めたようである。 知識社会の光と影 人的資源における「選択と集中」とは、具体的には、企業が必要とする人材を従来のように全て自社内に抱え込むのではなく、業務の遂行に必要な知識・専門性のレベルや従事させる業務のパターンに応じて、それぞれ最適な形態で調達しようというものである。これが「人材ポートフォリオ」と呼ばれる考え方で、概ね図1のようなマトリクスで説明されることが多い。なお、この図における「コア人材」とは戦略立案や価値創造、新しい商品やサービスの開発など企業経営の中枢機能を担う人材であり、「インデペンデント・コントラクター(独立契約社員)」とは、期限付きで企業から専門性の高い仕事を請け負う個人事業者(フリー・エージェント)のことを言う。そして、この四つの人材タイプの中で、「コア人材」のみが唯一長期雇用の対象となり、コア人材以外(フロー人材あるいはノンコア人材と呼ばれる)は基本的には外部化することによって、組織の効率性と柔軟性を高めようというのが、「人材ポートフォリオ」の基本的な考え方である。 ![]() さて、ドラッカーは「ネクスト・ソサエティ(来るべき新しい社会)」は知識社会であるとし、知識社会の特質として次の三点を挙げている(注3) 。 @ 知識は資金よりも容易に移動するがゆえに、いかなる境界もない社会となる。 A 万人に教育の機会が与えられるがゆえに、上方への移動が自由な社会となる。 B 万人が生産手段としての知識を手に入れ、しかも万人が勝てるわけではないので、成功と失敗の並存する社会となる。 つまり一言で言えば、知識社会は競争社会、それも限りなく完全自由競争に近い社会となると言うことである。では、その競争の帰結としてもたらされる「成功と失敗の並存する社会」とはどのような社会なのだろうか。それは図1のマトリクスを眺めればおおよその想像はつく。企業において中枢的な機能を担う「コア人材」と独立して企業から業務を受託できるような高い専門スキルを持つ「インデペンデント・コントラクター」、つまり知識社会における少数エリート層とそれ以外の多数層への二極分化と所得格差の拡大である。 しかも、知識社会においては、本質的にこの二極分化は拡大するものと考えられる。仕事に必要な知識のうち、いわゆる「暗黙知」についてはオン・ザ・ジョブ・トレーニング、すなわち仕事を通じて身につけていく部分が大きいが、企業の側が「必要な時に必要な人材を必要な分だけ調達し、不要な在庫を抱えない、人材のかんばん方式(注4) 」を志向すればするほど、企業にアドホックに使われる人材の側には暗黙知が蓄積されにくくなる。ドラッカーは教育の機会は均等に与えられるが故に上方への移動も自由となるというが、雇用の流動化が進めば暗黙知の蓄積という点で機会均等ではなくなるのである。我が国でも最近、この「人材のかんばん方式」の究極形とでもいうべき「一日契約社員」と呼ばれる一日単位での人材派遣サービスが登場し、特に若年層を中心に登録者が増えているが(注5) 、一日単位でさまざまな職を転々とするような働き方では暗黙知の蓄積は期待できるはずもなく、このような就労形態の一般化は二極分化に拍車をかけることになるだろう。 なお、携帯電話や電子メールといったインフォメーション・テクノロジーの普及が、こうした一日契約社員のような雇用形態を成り立たしめているという点にも留意しておく必要がある。ITは労働力をも「モジュール化」してしまうため、企業の要請に応じたジャスト・イン・タイムでの労働力の供給を可能にするのである。 行き過ぎた流動化の弊害 さて、企業経営の中枢業務を担うことを期待される「コア人材」については、企業はそれを内部化すなわち長期雇用したいと考えている。しかし、こうした知識レベルの高い人材こそが流動化するのが知識社会の本質である。再びドラッカーの言葉を借りれば、企業という「境界」がなくなり、「上方への移動」が自由になるからである。いわゆるヘッドハンティングは米国では「エグゼクティブ・サーチ」と呼ばれるが、エグゼクティブ(=幹部あるいは幹部候補生クラス)の転職は、米国では日常茶飯事である。有能な人材の引き抜き合戦は熾烈を極め、企業はそうした人材の引止めに頭を悩ませている(注6) 。 企業はノンコア人材を外部化するが、一方で本来内部化したいはずのコア人材もまた流動化を免れないとすれば、構成員がトップから末端に至る全ての階層において流動的であるような組織(そもそもそれを組織と呼べるのかも疑問であるが)で「ゴーイング・コンサーン(企業の永続性)」を維持できるのだろうかという根本的な疑問が湧いてくる。エンロンやワールドコムのような昨今の米国企業の不祥事は、短期的な収益極大化を経営目標とする株価至上主義の行き過ぎの現れであるとされるが、その根底には米国企業のエグゼクティブの流動化があるのではないだろうか。なぜなら、彼らは自分の在任期間中にいかにして自社の株価を上げ、それをストックオプションなどを通じて自身に還元させるかに血道を上げており、企業の長期的な成長への関心は低くなりがちだからである。まさに彼らは「現在の高株価と引き換えに自社の将来を抵当に入れ(注7) 」ようとしているのである。 利益を上げることは企業にとって重要なことだが、それ自体は結果であって企業の究極の目的ではない。少なくとも、優れた企業には単なるカネ儲けを超えた基本的な価値観や目的といった「企業理念」が確立されている。コリンズ&ポラスは著書「ビジョナリー・カンパニー」において、企業理念を維持することの重要性を説き、そのための具体的な仕組みとして「カルトのような文化」と「生え抜きの経営陣」を挙げている(注8) 。つまるところ、企業理念を共有し、かつ維持していくのは企業組織を構成する人間の役割だということである。だとすれば、行き過ぎた人材の流動化が企業理念の維持を困難にするであろうことは想像に難くないし、それは結果として企業の長期的な成長を妨げることになるだろう。 米国型への追随は正しい選択か 終身雇用・年功序列という日本型雇用形態の維持が困難となりつつある今、日本企業の多くは米国型の雇用形態を志向しつつあるが、これまで見てきたように、この米国型の雇用形態もさまざまな問題を含んでいるようである。そもそも日本型か米国型かという単純な二元論でその優劣を比較することにあまり意味があるとは思えない。企業はそのときどきの経営環境に適合した経営戦略を選択するのであり、雇用形態もまた然りである。たまたま八〇年代においては日本型の雇用形態が環境適合的であったが、九〇年代においては米国型がそうであったというだけのことである。従って、既に米国型の雇用形態にも問題点が露呈し始めている今、必要なことは米国型への安易な追随ではなく、今後の我が国を取り巻く環境に適合的な新たな雇用形態を模索することである。 経済のサービス化が進む主要産業国においては「所得均衡」「雇用確保」「財政均衡」の三つの要素の全てを同時に満たすことは困難であるという「サービス経済トリレンマ(注9)」 という概念がある。これによれば、例えば米国は、あらゆる分野に市場原理を導入することで財政の健全化と雇用の創出は達成できたが、その代償として所得格差は拡大している。いま我が国の構造改革が目指しているのは基本的にこの方向であるといってよいだろう。 しかし、米国は先進国の中では唯一例外的に合計特殊出生率が二を超えている「人口増加社会」であり、「所得均衡」を捨ててでも「財政均衡」と「雇用確保」を優先させて経済活性化を図ることはそれなりに合理的ではあるが、米国とは逆に先進国でも例を見ない急激な少子高齢化・人口減少社会へ突入しつつある我が国において、所得格差の拡大を甘受することが採るべき選択肢として妥当なのかどうか、はなはだ疑問である。筆者は構造改革の意義を否定するものではないが、構造改革の方向性として、彼我の国情の違いを考慮せずに単純に米国型を模倣することについては懐疑的である。 もちろん我が国の場合、財政再建もまた喫緊の課題であるため、その中で「所得均衡」を優先すれば「雇用確保」は諦めざるをえないということになる。しかし、幸か不幸か、我が国は労働人口減少過程に入っており、中長期的には雇用問題はそれほど深刻化せず、むしろ労働力不足のほうがはるかに大きな問題となるだろう。つまり、今後の我が国の雇用のありかたを考えるうえでは、減少する労働人口でいかにして経済を維持していくかという視点こそが重要なのである。 労働に対する価値観の多様化 日本型雇用形態における企業と個人の関係を一言で表現するなら、それは双方ともに「フル・コミットメント」という言葉に集約されよう。企業は社員に対して、長時間の残業や休日出勤、単身赴任も厭わず、私生活も顧みず、全身全霊を傾けて企業に忠誠を尽くすことを要求するが、その対価として、業務遂行に必要な技能を社内で時間をかけて教育し、手厚い福利厚生によって社員の全生活をそれこそ定年後の面倒まで含めてサポートしてきた。よく「ウチの会社」と言うように、個人と企業の関係はまさに家族的な共同体であったのだ。これに対して、米国型雇用形態における両者の関係は「契約」である。個人が企業に対して提供しようとする能力・知識・経験あるいは時間に対して、企業はいくら払うかという条件が契約、すなわち明示的かつ事前に双方で合意されているのである。一日いくらで雇用される一日契約社員にせよ、多額の報酬を餌にした引き抜き合戦にさらされているエグゼクティブにせよ、そこにあるのは労働をカネで買うという発想である。 我が国においては、企業の側が終身雇用制の放棄というかたちでコミットメントの度合いを弱めつつあり、社員の側も当然のことながら、従来のような会社一辺倒ではなく、会社との関係を冷静に「損得勘定」で眺めるようになりつつある。その意味では我が国においても、会社と個人の関係は米国型に近づいていくのだろう。しかし、一方で米国型のように両者をつなぐのがカネだけというような無味乾燥な関係もまた正常な関係とは言いがたい。企業においてカネ儲けが究極の目的ではないように、個人もまたカネだけのために働いているわけではないからである。もちろん、働く上で報酬の多寡は重要な問題であるが、同時に、労働は生活の大半の時間と情熱を費やす対象であり、単なる生計の手段という以上の意味があるはずである。「人はパンのみにて生くるにあらず」なのだ。 今後、特に我が国のような人口減少社会においては、企業と個人の関係は「売り手優位」の傾向が強まる。またドラッカーが指摘するように、知識社会においては「知識」という生産手段を個人が保有していることもその傾向を助長する。従って、企業が必要とする人材を確保するためには、個人に対してより魅力的な条件を提示しなければならなくなるが、それは必ずしも金銭的条件だけを意味しないはずである。知識労働において個人が高いパフォーマンスを発揮するためには、報酬のみならずより広い意味での満足感が仕事を通じて得られるかどうかが鍵となるであろう。 では、この顧客満足度ならぬ「従業員満足度」を高めるにはどうすればよいだろうか。それは一言で言えば従業員一人一人の多様性をできる限り尊重することである。社会の成熟化に伴う価値観の多様化は労働の面においても例外ではない。従来の日本型の「長期的な処遇の安定」と米国型の「短期的な業績評価」を価値観の両極とすれば、その間にそれこそ従業員の数だけ「満足感」のバリエーションがあるといっても過言ではなく、企業としてはそのひとつひとつにきめ細かい対応を迫られることになるだろう。 労働人口減少時代の就労形態 そのことは今後労働人口が減少する我が国において、特に顕著なかたちで表れてくる。労働人口の減少を補完するためには、新たな労働の担い手として女性や高齢者の労働市場への参加が不可欠であるが、彼(彼女)らは単なる報酬の多寡だけではなく、例えば、女性で言えば子育てと仕事の両立、高齢者で言えばその体力に合った働き方など、彼(彼女)らの個々のライフスタイルに合わせた多様で柔軟な就労形態の提供を雇用条件として企業に求めるようになるはずだからである。もちろん女性・高齢者のみならず、これまでの労働の主力であった壮年男性も、程度の差こそあれ同様の方向に向かうであろう。 減少する労働人口でいかにして経済の活力を維持していくかという我が国の雇用のありかたを考えるうえでのポイントはまさにここにある。必要なことは「仕事を分担(シェア)する」という発想、それも雇用維持のために仕事と報酬を分かち合うワーク・シェアリングではなく、もっとポジティブに多様な能力と多様な就労条件を柔軟に組み合わせて個人の仕事と生活の両立を目指す、ジョブ・シェアリングの発想(注10) である。それはちょうど、ひとつひとつカタチが異なるピースを組み合わせるジグソーパズルのようなものである。個人の能力と労働に対する価値観それぞれの多様性を尊重しながらそれらをうまく組み合わせて企業組織を構成することができれば、「従業員満足度」は高まり、同時にパフォーマンスも向上するだろう。もちろんジョブ・シェアリングはどうしても効率の低下を招くが、それはITの活用によってカバーできるはずだし、こうしたポジティブな方向にこそITは活用されるべきである。 仕事と生活の両立が社員の満足度を高め、それが社員のパフォーマンスに反映されて企業の成長につながる。米国企業の一部は既にそのことに気づき初めており、「ワーク・ライフ・バランス」という概念を人事政策に導入して、社員の仕事と生活の両立を積極的に支援し始めている(注11) 。 おわりに−個人と企業のWin-Winな関係の再構築 本来、企業組織とは個人の力では成し遂げられないことを成すために人が集まるところから始まったものであり、その意味で個人の幸福の追求と企業の成長はwin-winの関係にあった。ところが、組織規模の拡大とともに、両者の関係は資本家と労働者、搾取する側とされる側という対立関係に変容した。しかし、個人が知識という生産手段を保有する知識社会においては、個人の幸せと企業の成長は再び一致するはずだし、またより積極的に両者を一致させること、すなわちwin-win関係の再構築こそが競争力の源泉となるだろう。 社員の幸せのカタチは時代とともに変化していく。にもかかわらず、日本型あるいは米国型という「型」という言葉に象徴されるように、企業側の雇用制度はどうしても硬直的になりがちであり、時としてそこにズレが生じることがある。しかし、ズレが生じれば、都度修正していけばよいだけのことである。その意味で個人と企業の望ましい関係は単純明快である。要は、社員がそこで働くことに幸せを感じられないような企業に成長はないということに尽きるのだ。 (完) [参考文献]
・玄田有史『仕事の中の曖昧な不安』2001年中央公論新社 ・原田泰『人口減少の経済学』2001年PHP研究所 ・佐藤博樹「「ファミリー・フレンドリー」企業が二一世紀の日本を救う」エコノミスト2001年2月20日号 ・加護野忠男「「人減らし後」日本企業の錯覚と現実」プレジデント2002年7月29日号 2002年度 東洋経済「高橋亀吉記念賞」<テーマ「−雇用・賃金・人事−会社と社員の新しい関係」>佳作 (C)Masahiro Tsujita 2002 All Rights Reserved |