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はじめに
数年前から爆発的なブームとなったインターネットは、最近ではホームページのURLがテレビのテロップで流れることすら当たり前となり、確実にお茶の間にも浸透しつつある。そんなある日、小学校2年生になる息子が「おとうさん、電子メールってなあに?」と私に質問してきた。中高年の域に達してはいても、パソコンには少々自信のある私は「一言で言えばコンピュータ同士をつないで手紙をやりとりすることさ。でも手紙だけじゃなくて音や絵だって送れるんだぞ。」とやや偉そうに答えた。すると息子は「ふーん、そんなの僕たちだってゲームボーイでやってるよ。」とこともなげに言うのであった。聞けばゲームボーイ同士を通信ケーブルでつないで、例えば今流行のゲーム「ポケモン(ポケットモンスター)」のデータを友達と交換しあったりということは、いまや子どもたちの間では当たり前のことなのだそうである。さらに子どもと話をするに連れさまざまな事実が明らかになった。例えば今子どもたちの話題の中心であるタミヤのミニ四駆や小学館のマンガ雑誌「コロコロコミック」、あるいは幼児向け番組であるフジテレビの「ポンキッキーズ」までが、それぞれ専用のホームページを持っているとのことである。幸い我が家にはパソコンがあるので子どもにそうしたホームページを見せてやることでなんとか父親としての威厳を保つことができたが、パソコンが使えないお父さんたちは、会社だけではなく家庭でも肩身の狭い思いをするようなご時世になってきたのか、と感慨にふける今日この頃である。
「スーファミ」がもたらしたもの
私たちは今、急速に浸透しつつあるパソコンを通していわゆるデジタル・ネットワーク社会の入り口に立っているわけであるが、考えてみれば、子どもたちはもう何年も前から「ニンテンドー」を介して日常的にその世界に親しんできたわけである。たかがゲーム機とあなどってはいけない。昨今パソコンの一般家庭への普及率が急速に高まっているとは言っても、スーパーファミコン、プレイステーション、セガサターン、ニンテンドー64といったゲーム機の普及台数は、パソコンとはヒト桁違う。しかも私たちがいわば「頭から」パソコンに入ろうとするのに対し、彼らは遊び道具としてその世界を「体得」しているのである。 デジタル・ネットワーク社会ではメンバーが同じ場所に集まらなくても、例えば異なる場所・異なる時間帯であっても「協調作業(コラボレーション)」が可能となるといわれている。しかし、子どもたちにとってはこれもまた当たり前の事実である。そもそもテレビゲームがこれほどの勢いで浸透した最大の理由は、塾やお稽古事で昔のように友達やあるいは父親と一緒に遊べなくなった子どもたちにとって、ゲームを通じて例えば「何面をクリアした」とか「敵キャラを倒すにはこうすればよい」といった「経験値」を友達や父親と共有できるというところにあるのではないだろうか。まさに彼らは既に「時空を超越する」ことを身体で知っているのである。 こうしたデジタル・ネットワークがもたらす変化の本質を「体得」している子どもたち、いわば「ネットワーク・キッズ」とでも呼ぶべき新しい世代が着実に生まれつつある。
ピアノが弾けないモーツァルト
子どもたちが「キッド・ピクス」のようないわゆる「お絵描きソフト」を使っているのを見ていて感じるのだが、こうしたソフトのよいところは多彩な表現手法を自由に選んだり組み合わせたりできる点にある。従って表現の幅が非常に広がり、場合によっては思いもよらない斬新なものが飛び出してくることがある。しかし、それ以上に感心させられるのは「やり直し」が簡単にできるということである。いったん絵を描きあげてから背景の色をぱっと塗り替えてみると、まったく違ったイメージの絵になる。それを見てまた違う線を書き加えてみたり、あるいははずしてみたり、ということを繰り返しながらひとつの絵を仕上げていく。まさに「シミュレーション」である。これが実際の絵の具やクレヨンだったらいったん描いたものを書き直すのはけっして容易なことではない。 考えてみれば、美術や音楽といった芸術の世界では、従来はイマジネーションと表現技術の両方が要求された。頭の中に生まれたイマジネーションを外界に向けて表現するためには、絵画であればデッサン力や絵筆の筆致、絵の具の配合といった技術、音楽であればピアノやギターといった楽器を操る技術がそれぞれ必要であった。ところがそうした技術の習得には長い訓練期間が必要だし、人によって向き不向きもあるだろう。楽聖モーツァルトは幼少にして既にピアノの名手であったというが、もしモーツァルトの指先が極端に不器用でいくら練習してもピアノが弾けなかったとしたらどうだろうか。頭の中には次から次へと素晴らしいメロディが湧き出てくるのにそれを表現できないとしたら…。そして実はこうした「ピアノが弾けないモーツァルト」やあるいは「絵のへたなゴッホ」は世の中に数多く存在していたのではないだろうか。パソコンの普及とその操作性の向上は、こうした従来はその表現技術面の制約によって埋もれていた数多くの「モーツァルト」や「ゴッホ」たちの潜在能力を開花させる可能性を高めたとみるべきだろう。 もちろん、こうした議論には「大人」たちからのさまざまな反論が予想される。例えば「技術の習得の過程で努力とか根気が養われる」とか「やり直しがきかないからこそ真剣に取り組める」といった話である。たしかにそうした要素も必要なことは否定はしないが、例えば「そろばん」が「電卓」に、「墨と硯と筆」が「鉛筆」に置き換わったときのことを考えれば、少なくとも失ったものより得たもののほうが大きいと思われるし、子どもの情操教育上大きなマイナスが生じたわけでもないだろう。技術の進歩とはそういうものなのではないだろうか。一度子どもの手をとってじっくり眺めてみよう。思いのほか小さくて華奢に感じられるはずである。いずれ成長すればその手で絵筆を器用に操ったり、ピアノを自由に弾いたりできるようになるだろう。しかし、こと感性に関しては子どもの頃がもっとも多感で柔軟であり、それは成長とともに磨耗していく。この時期にどちらを優先して伸ばしていくべきか、という視点から考えたときに、コンピューターの果たす役割は非常に大きいと思われる。
バーチャルとリアル
「ネットワーク・キッズ」は、ネットワークの上で見知らぬ人々、しかも遠く離れたところに暮らす人々と自由にコミュニケートする。日本電気株式会社(NEC)が昨年11月に開始した世界規模の学校ネットワーク・プロジェクト“Gakkos
”には世界16 ヶ国21
(開始時)の中学校が参加し、インターネット上で各学校の生徒たちが自国の文化の紹介をしたりリアルタイムでチャットをしたりしながら交流を図るという試みが行われている(http://www.gakkos.com/)。また、札幌雪祭りでは、全国13の小中高校が参加して「バーチャル雪祭り」というプロジェクトが行われた。これはインターネット上で各校の生徒たちが札幌雪祭りの雪像の企画を電子会議で行い、札幌近郊の学校の生徒たちが中心となって実際に雪祭り会場で雪像の制作を行うと同時に、その制作の過程を現場からインターネットを通じて発信するというものである(http://www.miceng.co.jp/VSF1997/)。 この「バーチャル雪祭り」のホームページにアップされている子どもたちの電子メールのやりとりを読んでいくと一種の感動を覚える。スタートの段階では画像データをやりとりするための技術的課題の克服に関する情報交換が行われ(結構苦労していることが感じられる)、その後雪像のコンセプトに関する議論があり、続いてひとつのデザイン提案をベースにまた各人がその画像に手を加えて送り返すといった作業が続く。そして実際の雪像制作の段階では現場からの実況レポートとそれに対する応援、励ましのメール(カナダからのメールもあった)、さらにそれに対する感謝のメールが交わされていく。この一連の作業の過程では、当然こうしたメールの文面には表れないさまざまな葛藤や感情のもつれなどもあったことだろう。しかし、そうした困難を乗り越えて、各地に散在する子どもたちが共通の目的に向かってコラボレイトしていく様子はまさにひとつの「ドラマ」である。 我々「大人」は「世界」を既知のものとして認識している。少なくとも認識した気になっている。実際、国内・海外を問わずさまざまな場所へ旅をし、電話やファックス、手紙を通じて遠く離れた人とコミュニケーョンをとり、ニュースや新聞を通じて世界の動静を知ることによって、「世界」とはこういうものだということをなんとなく理解している。しかし、我々に比べて子どもにとっての認識できる「世界」というのは意外と狭いはずである。小学生ならせいぜい自分の住む街の周辺までであり、そこから先は札幌も地球の裏側のブラジルも同じように「見知らぬ世界」、存在することを知ってはいても明瞭に認識できない、しょせん自分には無縁の遠い世界である。しかし、先ほど例に挙げたように、デジタル・ネットワークを通じて世界の子どもたちと会話ができたり、雪祭りに参加できたりするようになるということは、子どもたちにとって遠い見知らぬ世界を一気に自分の身近な世界へ引き寄せることが可能になるということである。 実際の(リアルな)札幌雪祭りを見たことがある、あるいは見に行こうと思えばいつでも行ける我々にとって「バーチャル雪祭り」はしょせんバーチャルなものでしかない。しかし子どもたちにとってはテレビのニュースでしか見たことのない雪祭りこそバーチャルであって、ネットを通じて実際にそのプロセスに参加できる「バーチャル雪祭り」のほうがよっぽど「リアル」なのである。よくマルチメディア社会の弊害として子どもがバーチャルな世界に閉じこもることの危険性が指摘されるが、今述べたように、バーチャルとリアルの関係は相対的なものである。自分にとって「リアル」と認識できる世界以外の部分を「バーチャル」とするならば、なにがバーチャルかは、認識できる「リアル」の世界の範囲によって規定されるはずだからである。その意味で「バーチャル・リアリティ(仮想的現実)」とは少なくとも子どもたちにとっては「現実」なのであり、彼らにとってはファイナルファンタジーの世界もネットワークを通して見る世界も同じ次元のことなのであろう。
解放される子どもたち
さて、パソコンによって表現技術面での制約が解消され、それらパソコンを結ぶデジタル・ネットワークによって物理的距離の制約が解消されることは、子どもたちにとってどのような意味を持つのであろうか。それは一言で言えば、子どもであることのハンディキャップから「解放」されるということである。表現技術面の制約の解消とは、子どもゆえの身体的ハンディキャップからの解放であり、物理的距離の制約の解消とは、同じく子どもゆえの社会的ハンディキャップからの解放である。もちろん、そうした「解放」が子どもゆえの精神的未成熟という点から見てどうなのか、という問題は残る。しかし、それ以前に今の子どもたちは昔に比べてあまりにも「隔離」され過保護に育てられているのではないだろうか。かつて日本には「元服」という儀式があった。平均寿命が短かったこともあるが、多くは11から17歳ぐらいで社会的に「成人」として扱われたのである。それを考えれば、今の子どもたちにとって多少の「解放」はむしろ歓迎すべきことなのではないだろうか。そもそも子どもの精神面の成長は「未知との遭遇」によって促進されるものである。 本来、パソコンとそのネットワークというのは広い意味でのハンディキャッパーをその制約から開放する有力な手段である。例えば病気や障害のために容易に外出できない人や家事に追われる主婦の社会参加を可能にし、過疎地に住む人でも国内はもとより遠く海外との情報交換を可能にする。その意味で、デジタル・ネットワークによって身体的・社会的制約から解放された子どもたち、すなわちネットワーク・キッズが今後どのような社会を築いていくのか、大いに期待させられる。 こうした期待の理由のひとつが、彼らのコミュニケーションのとりかたである。彼らは電子メールを通じて、実際には会ったことがない人と絶妙なスタンスのとりかたでコミュニケートしているように感じられるのである。波長がミートするのが速いというか、あっという間に仲良く会話を始めるのだが、親しげな中にも相手の立場を配慮する優しさのようなものがそこはかとなく感じられる。相手の表情が見えないこと、いったん文章を送信してしまったら取り消せないこと、といった電子メールという媒体の特性に起因するものと思われるが、かえって我々のように実際会って人となりを見ないと信用できない、あるいは名刺交換をして相手の肩書きを確認したうえで、接する態度を決定するというような付き合いかたよりはるかに洗練されているような気がする。 考えて見れば、スピルバーグの映画「E
.T
.」や「未知との遭遇」でも、宇宙人とファースト・コンタクトするのは皆子どもであった。妙な既成概念や警戒心がないぶんだけ、子どもたちのほうがコミュニケーションの確立に長けているのかもしれない。
多様な価値観が共存する社会へ
コンピューターによって子どもたちが身体的未成熟という制約から解放されるということは、それまで埋もれていた子どもたちの多様な才能を開花させるきっかけとなる。同様に「バーチャル雪祭り」のようなプロジェクトによって子どもたちは多様な立場の人間が参加する協調作業を学ぶことになる。このふたつが組み合わさったとき、多様性をお互いに認め合い、その中で各自がそれぞれの才能を、それぞれの立場に応じて提供していくということが一般的なものとなっていくだろう。そこからイメージされる21世紀の姿は、一言で言えば多様な価値観が共存する社会である。これは現在の知識偏重・学歴重視の画一的人材教育に対する強烈なアンチテーゼである。そしてこうしたムーブメントが現在の我が国を覆っている閉塞感を打破していく契機になることを期待したい。 「大人」からみればパソコンに向き合い、ネットワークを通じてコミュニケーションする子どもたちというのは本質的に理解できないかもしれない。しかし、リアルとバーチャルが相対的であるのと同様に、価値観もまた相対的なものにすぎない。考えてみれば世代間の価値観の相違などというものはいつの時代にも存在しているのであって、マルチメディアだけが特別なわけでもない。少なくとも、全員が画一的な教育を受け、学歴で人の優劣をつけるような社会より、多様な才能を持った人たちがその多様性をお互いに認め合えるような社会のほうがはるかに素晴らしい未来像だと思うのだが、いかがだろうか。
最後に「バーチャル雪祭り」の97
年の雪像のテーマの宣言に非常に感銘をを受けたので、勝手ながらホームページから以下に引用させていただく。
『テーマ:We are the one !
〜地球上のすべてのものたちが共存し、未来に向けて地球を支えていこうとする意思と希望をこめて〜コンピュータやインターネットといった最新技術によって私たちは素晴らしい出会いがありました。しかし、その技術発展の影には自然破壊という大きな犠牲を負っていることを忘れてはならないのです。この雪像は出会いがテーマです。自然と文明、過去・現在・未来、そしてマンモス、伏姫は時代を越えて、今私たちと出会った訳です。ネットワークの先には常に人間が存在します。どんなに技術が進歩しても忘れてはならないのは私たち一人一人が8つの玉の意味を再認識して未来への希望を持っていくことだと思うのです。』
21
世紀を担うネットワーク・キッズに盛大なエールを贈りたい。未来は君たちの手の中にあるのだ。
以上
(株)日産情報ネットワーク主催・創立10周年記念論文 最優秀賞
(C)Masahiro Tsujita 1997 All Rights Reserved |