都市の「表情」としての屋外広告                      辻田昌弘                 

はじめに
 最初に、「屋外広告」という言葉から私が思い浮かべるシーンとそのイメージを列挙してみよう。
・ 昨年大ヒットしたテレビドラマ「ロング・バケーション」(フジテレビ)で、主人公の住むビルの屋上の大きな広告看板…このドラマでいちばんかっこいいのは木村拓哉よりもこの看板だと思う。
・ 巨大なグリコの看板を中心とする大阪・道頓堀の景観…日本の中の「アジア」。
・ 夜の首都高速を走るときに見える数々のネオンサイン…もし屋外広告がなかったら、東京の夜景はとてもつまらないものになると思う。
・ 新幹線の車窓から見える、たんぼの中に立つ看板…ひとつひとつ見ていくのが結構楽しみである。
 というように、少なくとも私自身の心の中では、「屋外広告」は、単なる商品に関する情報を伝達する機能以上に、都市の景観と切っても切れない重要な存在となっている。
 従って、本論文のテーマである都市景観と屋外広告について論じるにあたって、最初に主張しておきたいことは、屋外広告とは都市景観に付加される外的な要素ではなく、もはや都市景観を構成する重要な要素のひとつとなっているということである。仮に都市の景観を人間の顔に例えるならば、屋外広告はイヤリングやネックレスのような装身具、あるいはおしろいや口紅といった化粧ではなく(つまり取り替え可能なものではなく)、顔を構成する一部である目や鼻や口のようなものなのではないだろうか。今や屋外広告は単なる宣伝媒体のひとつではなく、都市景観に彩りを与え、都市の表情を豊かにするために欠かせない存在となっていると、私は考えている。

都市景観の理想像
 さて、屋外広告が都市景観を構成する重要な要素であるとするならば、屋外広告のありかたについて考えるにあたってまず最初に議論すべきは、都市景観のあるべき姿、いわば都市景観の理想像についてである。現在都市景観を論じる人の多くは、その根底に欧米型の都市景観を理想型として持ちながら、それとの対比において、日本の都市景観の現状に対してともすれば否定的・批判的なスタンスに立って意見を述べているように感じられる。
 彼らが理想とする欧米型の都市景観とは、ひとことで言えば、まず都市計画のマスタープランが確立していて、建物のかたち、外壁の色や使用する素材、あるいは広告・看板の類に至るまでがそのマスタープランによって統制されていて、一方そこに住まう住民も、例えば通りに面した部分には洗濯物などは干さず、窓には花を飾るといったように、景観維持のための意識が極めて高い、といったものであるようである。そして、こうした欧米の都市の整然とした景観との対比において、我が国の都市、例えば東京などについて、みんなが好き勝手に建物を建て、広告・看板もだしたい放題、住民にもまちをきれいに見せようという意識のかけらもない、これではまるでスラム街であり、諸外国に対しても恥ずかしい、と嘆いてみせる。
 しかし、ほんとうにそうなのだろうか。都市景観の形成にはその国特有の歴史や文化、あるいは国民性が色濃く反映されてきているはずである。だとすれば欧米との比較において都市景観を論じるためには、まず彼我の歴史・文化・国民性の違いに着目する必要がある。
 例えば、建築に関していえば、欧米は基本的に「石」の文化であり、日本は「木」の文化である。しかも欧米には地震がない。従って彼らはいったん建築したものは未来永劫存在するという前提があるため、古くから都市計画の考え方が発展してきた。これに対して、木の文化では建築物自体の寿命が短く、リプレイスが頻繁に発生するため、都市計画という概念自体がそもそも希薄である。加えて東京が近代都市として発展しはじめてたかだか百年、しかもその間震災と戦災で崩壊・再生を繰り返してきたわけで、歴史的にみても欧米と日本を同列に比較することに無理がある。
 また、住民の意識にしても、例えばホテルの廊下は公共の場だからスリッパや寝間着では歩いてはいけないというように、欧米ではプライベートとパブリックの区別が非常に明確である。しかし、日本の旅館は浴衣姿で廊下はもとよりそのまま街にでかけても構わない、という具合にそのあたりの区別が曖昧である。だいたい住宅の作りからして、縁側という建物の内なのか外なのか(つまりプライベートかパブリックか)よくわからない部分があって、そこから垣根越しに通りを歩く人と話をしたり、という文化である。従って、欧米のように、外から見える部分はパブリックゾーンだから洗濯物は干さずに花を飾りましょう、という意識が住民にないのはいわば当然でありこそすれ、そのことをもって非難されるいわれなど本来ないはずである。

「日本型」都市景観
 このような歴史的・文化的バックボーンの違いを抜きにして、単純に欧米の都市はきれいでそれに比べて日本の都市はごみごみしていると言うのは、それ自体明治以降の西洋崇拝思想の悪しき産物なのではないだろうか。例えば、香港という都市について考えてみよう。行かれたことのある方はおわかりのことと思うが、あの街の無秩序さたるや東京などの比ではない。しかし、あの一種「カオス」とでも呼ぶべき雑然さ、まちの活気が渾然一体となってかもしだされる独特の雰囲気こそが香港という都市の魅力をかたちづくっているのである。
 昨今、「複雑系」というアプローチ手法が話題となっている。「複雑系」とはひとことで言えば、複雑な現象を個別の事象に分解してから解明していくという従来型のアプローチに対して、複雑な現象をまず「複雑なもの」として認識しようというものである。言うまでもなく「都市」とは極めて「複雑なもの」である。従って都市のあかたを考えるうえでも、まず都市とはそもそも「複雑なもの」であるという認識からスタートすべきなのではないだろうか。
 その意味で、日本の都市景観は、本来ベースとして持っているアジアの文化、常に変化し続けるカオスの文化と、明治以来模倣してきた西洋文化の狭間にあるということが言えよう。そしてそのこと自体はなんら卑下することではなく、むしろ東洋と西洋の文化の混在それ自体が、日本の都市景観の魅力であると考えるべきであろう。

屋外広告のありかた
 冒頭に述べたように、屋外広告は既に都市景観を形成する重要な要素である。それに対して、これまで述べてきたように、少なくとも欧米的価値観に基づいて一方的に規制をかけることが必ずしも正しいことだとは、私には思えない。それは屋外広告を都市の「衣服」と見た場合の発想である。「顔は人間の内面を映す鏡である」という。屋外広告は都市の「顔」であり「表情」であるとするならば、その源泉となる都市の「内面」とは何だろうか。それは当たり前の話であるが、そこに住まう我々日本人である。では、日本人の特質とは何だろうか。それは、良きにつけ悪しきにつけ、極めて「柔軟性」が高いということであろう。何にでも興味を示し、目新しいもの、面白いものがあれば即座にそれを消化吸収し、自身のうちに取り込む。その結果として、日本人は、そして日本の都市は常に「変化」してきたし、これからも「変化」し続けるであろう。つまり日本の都市景観の最大の特質は、欧米の都市のような完成された「静的な」美しさではなく、「変化」し続けることのダイナミズムにあるのではないだろうか。
 では、そのような変化し続ける都市における屋外広告のありかたとはどのようなものであろうか。突き放した言い方になるかもしれないが、結論から言えば、屋外広告のプランナーは自分のセンスと価値観の信じるところに従って、より自由にかつアグレッシブに表現していけばよいのである。良いものも悪いものも(だいたい我が国においては、なにが良いものでなにが悪いものかという価値基準自体が明確に存在するのだろうか)含めた、屋外広告のある意味で無秩序な集積それ自体が、日本の都市景観のダイナミズムを生み出していくのである。その結果として、都市の顔がどのようなかたちになっていくにせよ、それが欧米の模倣ではない、日本独自の歴史と文化、そして国民性の反映としての都市景観なのである。

おわりに
 先日臨海副都心の国際会議場「ビッグサイト」で行われたシンポジウムに出席した。シンポジウムが終わって屋外に出ると、「都心方面へのお帰りはこちらが安くて便利」と、新交通システム「ゆりかもめ」と都バスと水上交通の三者がそれぞれ立て看板をだしてハンドマイクで客の「呼び込み」合戦をしていた。詳しくは知らないが、いずれも同じ(言うまでもなく臨海副都心の事業主体であるところの)東京都が運営している交通機関であるにもかかわらず、である。
 私の連れは「せっかくこれだけの近代的かつ計画的な都市をつくってもこんなことをしていては台無しである」と嘆いていたが、私はこの出来事にきわめて「日本的」なものを感じた。そして、やがてこの「欧米的」な価値観・美意識に基づいて計画された未来都市のそこここに、屋台や幟や立て看板などが無秩序に乱立する姿を心に思い描いて、妙に嬉しくなってしまった。それは映画「ブレードランナー」においてシド・ミードが描いてみせた未来都市「トーキョー」の姿にほかならないからである。


「総合報道」誌主催 第16回総合報道賞・論文の部(テーマ『都市景観と屋外広告』) 2席入賞
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