市場化時代の新たなルール―「機会の平等」と「自己責任原則」―     辻田昌弘             

はじめに
 経済の市場化とは、一言で言えば企業や個人といった経済主体が「市場」において相応のリターンを得ることを目的として自らリスクをとるようになることである。しかし、市場メカニズムは結果として「敗者」を生み出すため、人々が安心して積極的にリスクをとりにいけるようにするには、「敗者」に対する一定の救済措置をあらかじめ講じておく必要がある。この救済措置が一般的にセーフティネットと呼ばれているものである。つまり、この場合のセーフティネットとは、市場化によって発生する「結果の不平等」を調整する機能、あるいは「結果の不平等」に対する一種の保険としての機能として理解される。
 平成11年度版経済白書が指摘しているように、これまで我が国においては、メインバンク制や終身雇用制、あるいは株式持合いに代表される長期継続的安定取引といったいわゆる「日本的システム」によって、各経済主体のリスクが漠然と関係者間で分担されており、事実上リスクが「社会化」されていたといってよい(注1)。リスクが社会全体で分担されている状態においてはセーフティネットの必要性はそもそもそれほど高くない。なぜなら、そうした社会のありようそのものが、個々の経済主体のリスクを低めるという意味で一種の「セーフティネット」として機能しているからである。つまり、セーフティネットについての議論は、リスクの負担についての社会のありようと密接に関係しているのである。

市場化の前提条件
 さて、特に90年代以降、グローバリゼーションや情報化の進展に伴って、我が国は日本的システムという非・市場型のシステムから市場経済システムへの構造改革を迫られている。こうした流れに対して一部には「アングロサクソン流市場主義の押し付け」とか「市場至上主義」といった表現で市場化そのものを否定的に捉える向きもあるが、この構造改革自体は日本経済の再活性化のためには不可避であると認識すべきである。とはいえ、経済の市場化を進めていくためには、その前提としていくつかのルールが整備されている必要があることも忘れてはならない。それは具体的には「自己責任原則」が市場のプレーヤーに貫徹されていることと「機会の平等」が担保されていることである。
 「自己責任原則」とは、市場への参加すなわちリスクテイクを自分自身で決定することであり、より良い結果(リターン)を挙げられるかどうかは本人の自助努力次第であり、その結果(リターン)についても自分自身で責任を負うということである。市場のプレーヤーに自己責任原則が貫徹されていることは、市場の公正性、透明性を担保するうえで不可欠のルールである。ただし、プレーヤーに自己責任原則の貫徹を求めるためには、佐藤俊樹氏が「自分で決める社会というのは、自分では何が決められないかを正しく決める必要がある社会なのである」と指摘しているように(注2)、いったいどこまでが「自己の責任の範囲なのか」という範囲規定が明確でなければならない。例えば、人種や性別あるいは年齢といった要因は自助努力でどうにかなるものではないので、こうした要因によって結果(リターン)が左右されたり、あるいはそもそも市場への参加が制限されたりする場合に、それをプレーヤーの責任に帰することは酷と言わねばならない。
 これがもうひとつのルールである「機会の平等」である。機会の平等とは単に市場への参加の機会を平等に与えるということではない。我々がオリンピックの代表選手と同じ競争のスタートラインに立たせてもらえたとしても、それだけでは最初から勝負にならないことは明白である。苅谷剛彦氏が指摘するように、機会の平等とは「機会の利用能力の平等」すなわち同じスタートラインに立つために必要な能力の獲得についての保証と、「グループ間の平等」すなわち白人と黒人あるいは男性と女性といった「グループ」間での扱いに差をつけない、というふたつの概念を含む幅広い概念として捉えられなければならない(注3)。
 このように、市場においてプレーヤーが自己責任原則に基づいて行動することと、その前提として広い意味での機会の平等が担保されていることが、市場メカニズムが有効に機能するために必要となるのである。
 さて、我が国の現状において果たしてこのふたつのルールは満たされているといえるのだろうか。以下に、労働市場を例にとって具体的に検証してみたい。

戸惑う中高年サラリーマン
 リスクが社会化されていた我が国では、個人も企業も大なり小なり他者依存的な体質を抱えており、自己責任という概念自体にそもそもなじみが薄い。個人は年功序列・終身雇用という日本型雇用形態のもとで企業に依存し、企業はまた護送船団方式によって政府に依存してきた。特に個人のレベルで見た場合、「自己責任」と言われてもっとも戸惑いを覚えているのはサラリーマン層、なかでも今まさにリストラの危機に直面している中高年層であろう。
 年功序列・終身雇用という安定した環境の中で社会人生活を送り、所属する会社の中でしか通用しない汎用性の低いスキルばかりを身につけさせられ、「出る杭は打たれる」という企業風土の中で「個」を抑制し組織優先で生きてきた中高年サラリーマンにとって、「市場化」はあまりにも唐突であるし、「話が違うじゃないか」というのが偽らざる気持ちであろう。それでも、不幸にしてリストラや企業倒産によって無理やり労働市場に参加せざるを得ない状況に追い込まれた人には否応なしに「自己責任」が突きつけられるが、逆にそれ以外の人々は一層必死に企業にしがみつこうとする。雪印乳業事件に代表されるように、社内の危機管理体制の甘さに端を発する企業不祥事がこのところ多発しているが、その背景には顧客や市場よりも社内に目が向いてしまう社員の保身志向の強まりがあるのではないだろうか。
 一方、このところ完全失業率は5%台に迫らんとする状況が続いているが、内容的には需給のミスマッチ傾向が顕著である。このところ求人は増加基調にあり、特にIT関連や介護福祉関係ではかなり旺盛な求人ニーズがあるにもかかわらず、それが失業率の低下に結びつかない。このミスマッチは主に年齢面でのミスマッチとスキル面でのミスマッチであるが、中高年層では「求人の年齢と自分の年齢とが合わない」という年齢面でのミスマッチが非常に顕著に現れている(45歳以上の完全失業者の43%が「仕事につけない理由」として年齢のミスマッチを挙げている(注4))。これは典型的な「機会の不平等」である。
 主体的にか追い込まれてかは別として、ともあれ労働市場への参加(リスクテイク)を決断したとしよう。自己責任だから当然収入の減少はやむをえないし職種も選り好みできないと覚悟した上でだ。にもかかわらず市場で「買い」が入らない(値がつかない)とすれば、これは市場が有効に機能していないといわざるをえない。実際このところ失業期間は長期化する傾向にある。完全失業者の4人に1人は失業期間1年以上となっており、しかもその傾向は特に45歳以上の層において顕著である(注5)。政府もこの5月に「ミスマッチ解消を重点とする緊急雇用対策」を打ち出したが、新規・成長分野雇用創出特別奨励金の拡充(一人70万円)や職業訓練の拡充などを柱とするその内容については「対症療法」の感が否めない。

根が深い若年層の失業
 失業問題というとどうしても中高年層に目が行きがちであるが、実は特に15歳から24歳の若年層の高失業率も大きな問題となっている。特に若年層の失業については、景気変動要因よりも構造的要因のほうが強い(すなわち景気が回復しても失業率が低下しない可能性が高い)と指摘されており(注6)、実は問題としては中高年層よりも根深いものがある。若年層失業の構造的要因として挙げられるのが離職率、特に自発的離職率の高さである(注7)。自発的離職が増加傾向にあるのは若年労働者の就業意識の変化によるところが大きいとされているが、背景として親と同居していることによる経済的バックアップの存在を見逃すことはできない。いわゆる「パラサイトシングル(注8)」である。サラリーマンが企業に依存していたとすれば、若年層は親元に依存していたのである。両者の大きな違いは、サラリーマンにとってもはや企業は依存先として多くを期待できないことが明白であるのに対して、若年層はその親に対してますます依存の度合いを深めているという点にある。
 目の前に親という魅力的なセーフティネットがあるのにあえてリスクをとる者は稀有であり、こうした他者依存志向の強い若年層に対して「自己責任」を説くことにはそもそも無理がある。もちろん彼らにも同情すべき点はある。「大学さえ出ていれば」と言われて小さい頃から受験勉強に明け暮れて、挙句の果てに待っていたのは就職氷河期である。しかも、大学進学率(含む短大)が5割に近い今となっては大学卒という肩書きだけではそこに何の付加価値もない。さらに、ここ数年来の一連の企業不祥事や大企業の破綻に関する報道を見ていれば、一流大学を出て一流企業に就職するという彼らに与えられた「目標」自体が地に墜ちたような気にもなるだろう。彼らとしてもこれまた「話が違うじゃないか」と言いたいところである。また、若年層にも「機会の不平等」は存在する。表向きはなくなったとはいえ、特定の大学卒業者のみを選考対象とする「指定校制」や女子学生への採用差別は根絶されるには至っていないと思われるからだ。
 若年層において離職率・転職率が高まっていることは、ポスト終身雇用時代の新しい就労のありかたとして、ある意味で前向きに評価できる部分もある。しかし、それが親への依存を前提とした安易な離職・転職だとすれば、労働市場における彼らの市場価値は一向に高まらず、意識面でも能力面でもいずれ不良資産化することは想像に難くない。しかも、その予備軍とでも言うべきいわゆる「フリーター」は全国で151万人もいるのである(注9)。 

「機会の不平等」に対するセーフティネットの構築を
 以上、労働市場におけるメインプレーヤーである中高年サラリーマン層と若年層という二大グループについてその実情を見てきたが、それを踏まえて我が国の労働市場が有効に機能するために何が必要となるのかを考えてみたい。
 市場化経済においては、「結果の不平等」は必然的に生まれるものである。だからこそセーフティネットが必要になるのだが、反面あまり手厚いセーフティネットはモラルハザードを引き起こすため、その整備については必要最小限のレベルにとどめるべきであろう。市場化経済への移行期にある我が国の現状に鑑みれば、「結果の不平等」のための事後的なセーフティネットの整備もさることながら、まずは市場を有効に機能させることのほうが喫緊の課題ではないだろうか。
 「セーフティネット」という言葉はサーカスの空中ブランコや綱渡りの下に張られている安全網のメタファーだということだが、いくら「落ちても大丈夫だよ」と言われてもそれでいきなり空中ブランコができるわけではない。おそらく大方の人間は足が竦んで動けないだろう。これが今の我が国の現状である。さらに言えば空中ブランコの足場にすら登りたくとも登れない人も多いのである。その意味ではまずは「機会の不平等」に対するセーフティネットの構築が急務である。「機会の不平等に対するセーフティネット」というとなんとなく不自然に聞こえるかもしれないが、それはセーフティネットというメタファー自体が「落ちた後」という事後的なニュアンスを含んでいるせいであり、セーフティネットという言葉を不平等に対する調整機能と解釈すれば理解しやすい。具体的には、
@ 年齢・性別・学歴等による差別の解消
A 労働移動に対して中立的な税制・社会保険制度の構築
B 職業訓練サポート機能の拡充強化(ただし、現行の職業訓練サポートはパソコンや英会話などといった個別スキルの短期的な習得が中心となっているが、今後は市場化時代に求められる新たな人材像はなにかという視点から総合的に幅広い知識・能力を習得できるような枠組みが必要ではないか。なお、この点については米国のコミュニティカレッジが参考になると思われる(注10)。)
等の施策が考えられる。まずは空中ブランコにトライする人を増やすということである。
 景気は99年4月を底に回復基調にあり、完全失業率も今年の2、3月の4.9%をピークに若干改善傾向にある。しかし、過剰雇用を抱える金融業、建設業、流通業等のリストラはこれからが本番であり、当面はジョブレス・リカバリーの状態が続くであろう。だからこそ労働市場が有効に機能するように整備することが急務なのである。
 一方、90年代前半の米国という先例に倣うならば、今後労働市場に大量に流入してくる人員の雇用の受け皿として待望されるのがいわゆるベンチャー企業である。ところで、少なくとも「@強い研究開発志向、A設立後10年未満、B上場目的」という条件を満たすような「狭義のベンチャー企業」で見る限り、その創業者のプロフィールは「技術系の高学歴を背景に大企業に入り、テクノクラートとして実績を上げた後にスピンアウトして起業しているハイテクエリート」という特徴が顕著であるという(注11)。こうした人々はマインドの面でも能力の面でも積極的にリスクをとりに行ける人であり、我が国社会においては残念ながらまだまだ少数派である。ところがベンチャービジネスは基本的に「多産多死」の世界である。従って、我が国においても米国並みのベンチャービジネスの隆盛を期待するのであれば、より多くの人材、特に従来大企業に囲い込まれていた人材がスムーズに独立・起業に向かえるような仕組みを構築する必要がある。昨今ベンチャービジネスの成功者達が「時代の寵児」としてもてはやされているが、逆説的に言えば彼らが「寵児」扱いされなくなったとき、つまり、独立・起業がさほど特別なことではなくなったとき、初めて我が国にも本格的なベンチャー時代が到来したということができるのではないだろうか。

リーダーの果たすべき役割
 大学(含む短大)への進学率が約50%、就業者の約75%が被雇用者である現在の日本において、「大学出のサラリーマン」はもっとも普遍的な人生モデルであったといえよう。しかし、これまで見てきたように学卒者層やサラリーマン層はいままさに受難の時代にある。これを構造改革という一語で済ませるのは簡単であるが、これまでずっとこの人生モデルを生きること、目指すことに何の疑いも抱くことなく来た多くの人達には、「話が違うじゃないか」という割り切れなさと未知の領域への不安感が充満している。冒頭に触れたような一連の「反・市場化」論が一定の支持を得ているのはこうした国民の心理が背景にあると解すべきであろう。
 将来の見通しが不透明なとき、大抵の人はまず、とりあえず安全なところに逃げ込んで様子を見ようとする。仮にその逃げ込んだ先がそう長くはもたないということに薄々気づいていたとしてもだ。それが現状における、サラリーマンにとっての企業であり、若年層にとっての親元なのである。そんな彼らがいまもっとも必要としているのは、将来の見通し、構造改革の先にある未来の姿についての情報である。国家百年の計とはいわない。せめて十年の計でいいから国民にそれを示さなければ、この国の閉塞状況はいつまでたっても解消しないだろう。国が変わるにはまず国民が動かなければならないからだ。
 その際に重要なことは、その情報を国民にわかりやすいメッセージとして伝えることである。古今東西を問わず、名政治家、名経営者と呼ばれる人の発するメッセージはシンプルでわかりやすく、かつインパクトがある。逆に言えばそれこそがリーダーの重要な資質なのだろう。これは政治家だけの問題ではない。学者、エコノミスト、経済評論家、マスコミなどいわゆる知的リーダー層と呼ばれる人たちも、この「わかりやすさ」という点にもっと意を配るべきではないだろうか。難解な文章を書く人や逆にテレビ等で扇情的に喋る人はたくさんいるが、骨太な議論を平易かつ冷静な語り口で展開できる人は思いのほか少ない。竹中平蔵・佐藤雅彦両氏の『経済ってそういうことだったのか会議』や中谷巌氏の『痛快!経済学』といった書籍がなぜベストセラーになるのか、我が国の知的リーダーを自任する人たちはもう一度よく考えてみてほしい。
 国をひとつの企業と見立てれば、国民は株主である。だとすれば国は株主である国民に対してこの国の運営方針についての説明責任(アカウンタビリティ)を果たさなければならないはずである。さらに言えば、エコノミストや経済評論家といった人達は株式市場におけるアナリストや格付機関のようなものである。このように位置付ければ、彼らが誰に向けてどのようなかたちで情報を発信しなければならないか、おのずから明白となるはずである。 
 市場化の時代、自己責任が問われる時代には、リスクテイクの判断に必要な情報が入手可能であるということが大前提である。そして、市場化の時代、自己責任が問われる時代だからこそ、国民はこの国の未来に関する情報を欲しているのだ。それも喉から手が出るほどに。                                                                                  (了)


【参考文献】

  1. 平成11年度版『経済白書』
  2. 佐藤俊樹『不平等社会日本−さよなら総中流−』(2000年中公新書)
  3. 苅谷剛彦『「中流崩壊」に手を貸す教育改革』(中央公論2000年7月号)
  4. 総務庁『平成12年2月労働力調査特別調査』
  5.    同  上  
  6. 斎藤太郎『若者の失業率はなぜ高いのか』ニッセイ基礎研究所Monthly Report 2000年8月号
  7. 平成12年度版『労働白書』
  8. 山田昌弘『パラサイトシングルの時代』(2000年中公新書)
  9. 平成12年度版『労働白書』
  10. 山田久『大失業』(1999年日本経済新聞社)
  11. 榊原清則他『平成10年度日本のベンチャー企業と起業者に関する調査研究』 NISTEP REPORT No.61(2000年科学技術政策研究所)

・苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(1995年中公新書)
・橘木俊詔『日本の経済格差』(1998年岩波新書)
・橘木俊詔『セーフティ・ネットの経済学』(2000年日本経済新聞社)
・佐藤俊樹『「新中間大衆」誕生から二〇年』(中央公論2000年5月号)
・松村圭一『失業・就業構造の国際比較が示唆するもの』第一生命経済研レポート2000年8月号
・清家篤 『エージレス社会 構築急げ』2000年8月1日付日本経済新聞朝刊


東洋経済新報社主催 第17回高橋亀吉記念賞(テーマ「市場化時代のセーフティネットとは」)最終選考ノミネート作品
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