守るより攻めろ −「事実上の」ルールとしてのグローバル・スタンダード−  辻田昌弘            

はじめに
 我が国では近年「グローバル・スタンダード(世界標準)」を巡る議論がかまびすしい。しかし、その多くが「グローバル・スタンダード経営(イコール米国型経営あるいはアングロサクソン型経営)礼賛」vs.「日本型経営の美点再確認」という単純な、しかも多分に情緒的なバイアスのかかった二元論に終始していることについては、正直なところ違和感を禁じえない。なぜこのような不毛な論争に陥るかと言えば、それは論者の多くがグローバル・スタンダードについて語る際に、企業が活動する上で準拠すべきルールに関する議論と、そのルールの上で活動する企業の経営スタイルに関する議論とを一緒くたにしてしまっているからである。
  1980年代から本格化した企業活動のグローバル化・国際金融市場の形成という流れに東西冷戦の終結や情報化の進展といった要因が加わり、今やボーダーレスな世界市場が形成されつつあるが、この巨大な市場を円滑に機能させるためには、当然参加するプレーヤー相互間の共通の約束事、ルール、プロトコルといったものが必要となる。それがグローバル・スタンダード(世界標準)である。一方、米国型経営とか日本型経営という言葉の意味するところは、そうした共通のルールに則り市場でプレーする各企業の経営戦略に関する議論なのであるが、当然のことながらこれはグローバル・スタンダードとは全く次元の異なる話であり、区分して議論すべき問題であることは言うまでもない。サッカーを例にとれば、グローバル・スタンダードとは競技のルールであり、経営スタイルとは個人技重視か組織プレーか、あるいは攻撃的か守備的かといった各チームの戦術に相当するものである。両者をごちゃ混ぜに議論するということは、W杯で日本代表が敗退したのはサッカーのルールそのものに問題があるからではないか、と言っているようなものである。
 もちろんグローバル・スタンダードはサッカーのルールのようないわゆる「公式ルール」ではない。グローバル・スタンダードの形成それ自体に市場原理が働き、スタンダードを巡る競争が存在するという意味において、グローバル・スタンダードは世界規模の大競争時代における企業の経営戦略上極めて重要な意味を持つ問題であるといっても過言ではない。だからこそ、この問題を論じるにあたっては米国型か日本型かなどという単純かつ情緒的な二元論に陥ることのないよう注意する必要があるのである。

デファクト・スタンダードとしてのグローバル・スタンダード
 まず最初に確認しておきたいことは、サッカーのルールは「デジュアリ・スタンダード(公的な標準)」であるが、グローバル・スタンダードは「デファクト・スタンダード(事実上の標準)」であるということである。つまり、現在グローバル・スタンダードと呼ばれるものの多くは国際的な第三者機関が定めたものでもなければ、参加するプレーヤー全員が一堂に会して合意の上で取り決めたものでもない。グローバル・スタンダードの大半は、デファクト・スタンダードの典型であるパソコンのOSや家庭用VTRの規格と同様、あるプレーヤーが提唱したものがその後それに同調するプレーヤーが増えることによって結果的にグローバル・スタンダードとなっていったのである。
 グローバル・スタンダードはデファクト・スタンダードであるという認識に立つと、グローバル・スタンダードの特質が明らかになってくる。その特質とは第一に、必ずしもベストのものがスタンダードとなるとは限らないが、それがスタンダードとして事実上合意されている以上各プレーヤーはそれに準拠せざるをえないという点である。このことは、かの有名なタイプライターのQWERTY配列の事例からも明らかである。例えば、ムーディーズやS&Pといったいわゆる「格付け会社」というのがあるが、彼らは単なる民間の会社であるという意味において「デジュアリ」ではない。しかし、世界の投資家の大多数がこれらの格付け会社のレイティングを投資判断のベンチマークとして事実上認めている以上、ときにはそのレイティングが当該企業の経営実態を正確に反映していないことがあったとしても、それがグローバル・スタンダードなのである。
 グローバル・スタンダードの第二の特質は、それがデファクト・スタンダードであるがゆえに、将来にわたっても同一のスタンダードが支配的であり続けるという保証はないということである。仮にそのスタンダードに準拠することがプレーヤーにとって不利益になることが多いということになればそのスタンダードは力を失い、それに代わる新たなスタンダードが成立するであろう。あるいはプレーヤーにとってより大きな効用をもたらすような新たなスタンダードが登場した場合も同様である。
 さて、このようにグローバル・スタンダードをデファクト・スタンダードとして見ることによって明確になるふたつの特質のうち、第一の特質は現在の問題、即ち現時点で支配的なスタンダードにどのように対応すべきかという議論に、第二の特質は未来の問題、即ち次世代のスタンダードの形成に関わる議論にそれぞれつながっていく。

「外部環境」としてのグローバル・スタンダード
 企業を取り巻く外部環境は日々変化している。そして、その外部環境の変化にいかに対応するかが企業経営の本質であるといっても過言ではない。グローバル・スタンダードもそれを世界市場にプレーヤーとして参加するうえで準拠すべき一定のルールと解するのであれば、プレーヤーにとっての「外部環境」のひとつである。もちろん外部環境それ自体を自らにとって有利なものに変えていくことも企業経営の重要な戦略のひとつであるが、それは先ほどの分類でいう未来の問題に属することであり、これについては後に論じることとし、まずは現在の問題に焦点を絞って議論を進めることにする。
 既に支配的であるグローバル・スタンダードが存在する場合、企業の対応はふたつしかない。ひとつはそのスタンダードに準拠することであり、もうひとつはそのスタンダードの影響が及ばない事業領域で活動することである。まず前者から検討しよう。これは、世界市場でプレーする以上は好むと好まざるとにかかわらずグローバル・スタンダードに従わざるをえないというだけの単純な話である。例えばグローバル・スタンダードのひとつである「ROE(株主資本利益率)重視」は企業経営の短期的成果が偏重され、企業の長期的・安定的成長とは相容れないとする意見がある。しかし、ほんとうに両者は両立しえないのだろうか。「売上高増大・シェア拡大による長期的成長」という典型的な「日本型」の経営目標を掲げるブリヂストンの海崎洋一郎社長は『米国は収益重視で減価償却をあまりしない。日本は後で楽する意味でも目いっぱいやる。それから製造業は技術、設備に投資をしなかったら脱落する。5年後を見てくれ。量を拡大すれば収益はついてくる、というのが答えだ。』と言い切っているが、その一方で『欧米の投資家に収益を無視するのか、と質問される。一応連結のROEを15%(現在は12%)にすると公約しているが、結局は経営観の違いだ。』と述べている(注1) 。
 このコメントを見る限りでは、海崎社長はどうやらROE重視の経営が必ずしも最良とは考えていないようであるが、一方それがルールである以上クリアするのは当然のことと認識しているように見受けられる。ちょうどサッカーの選手がプレー中に「なぜボールを手で触ってはいけないのか」などと思い悩んだりしないように、日本企業のトッププレーヤーとしてグローバルなレベルで活躍する企業はグローバル・スタンダードを準拠すべきルールとして自然に自らのうちに取り込んでいるのではないだろうか。こうした企業にとっては、日本IBMの椎名武雄会長が言うように『グローバル・スタンダード経営なんて大した議論じゃない』(注2)のである。
 その椎名会長が『外国人株主も多く、事業そのものが世界的。米IBMよりもグローバルな会社。』と言うソニーは1997年6月に社外取締役や執行役員制を採り入れた取締役会の改革を行ったが、これは一般には「米国型コーポレートガバナンス(企業統治)の導入」と評されている。しかし同社の大賀典雄会長は『ソニーの取締役会運営を「米国型」と評する人もいるが、ぜんぜん違う。(中略)あえて言うなら"新しい日本型"のような面もあるだろう。ただし、ソニーの取締役会の姿が、日本企業にとって模範的なあり方だとは、これっぽっちも考えていない。ソニーにとっては、これが一番ふさわしいと思った形に変えただけだ。』とコメントしている(注3)。言うまでもなくソニーは欧米の投資家からも高い評価を得ているいわゆる「国際優良銘柄」であり、ROEなど経営指標の面でも情報開示なども含めたコーポレートガバナンスの面でもグローバル・スタンダードをクリアしている企業であるが、当のソニー自身にそのことに関する気負いのようなものはあまり感じられない。その理由はおそらく、『今後もソニーは、取締役会の形態や運営を、世の中の動きに合わせてどんどん変えていくだろう。』と大賀会長が言うように、外部環境の変化に応じて自己変革を行うことが企業経営の本質であることを同社が理解しているからであろう。

逃れられないドメスティック企業
 さて、グローバル・スタンダードへの対処のしかたとしてこれに従うか、あるいはグローバル・スタンダードの及ばない事業領域を探すかのふたつの道しかないと先に述べたが、果たしてそのような事業領域はあるのだろうか。少なくとも少し前まではまさに日本国内がその領域であった。これまでは海外に打って出ずに、規制や独特の商慣習という障壁に守られた日本国内で活動している限りはグローバル・スタンダードにあまり頭を悩ませる必要はなかった。しかし今やこのラストリゾート(最後の楽園)にもグローバル・スタンダードの波は押し寄せつつある。
 我が国の規制緩和・市場開放は遅れているとはいえ、既に金融資本市場は相当程度ボーダーレス化しており、金融ビッグバンはその流れを今後一層加速するだろう。既に国内全上場会社株式に占める外国人投資家の持ち株比率は9.8%に達しており(注4)、その影響力は無視できなくなりつつある。米国最大の機関投資家であるカリフォルニア州公務員退職年金基金(カルパース)は今後投資先である日本企業にも株主として経営に関与していくことを公言しているし(注5)、実際今年の日本企業の株主総会において、日本企業株を保有する米国機関投資家の約65%がなんらかのかたちで議決権行使をしていたという(注6)。つまり、今後は国内を主活動領域とする企業といえども、グローバル・スタンダードに準拠した経営を要求されることになるわけで、仮にそれに従わない場合には市場からの資金調達に支障をきたす可能性もあるということである。
 戦後の日本企業の成長の原動力は官民協調・業界協調といういわゆる「護送船団方式」にあった。その後自動車、エレクトロニクスなど主として製造業系では企業が世界のレベルで独り立ちできるようになるにつれて護送船団は解消されていったが、金融、建設、流通など非製造業、サービス業系では依然として色濃く残っている。そして、現状どうかと言えば、もちろんそれぞれ例外はあるが大きく括ってしまえば前者が好業績をあげ後者が業績低迷に陥るという二極化傾向が顕著である。換言すれば、独り立ちして世界というフィールドで互いにライバルとして戦っている「おとな」の企業群と、国内で政府の庇護のもと相変わらず仲間意識が抜けない「こども」の企業群との間の、外部環境変化への対応という企業経営の根幹の部分での力量の差が、ここへ来てはっきりしてきたということである。そして昨今はやりの「グローバル・スタンダード恐怖症」は、どうやらこうした「こども」の企業群がその発生源のように見受けられる。つまり、「こども」が自分達の力不足を棚に上げて「僕たちが悪いんじゃない。社会(ルール)が悪いんだ」などと駄々をこねているのである。しかし、ルール(スタンダード)に文句をつける前に、まずは護送船団の群れから離れて自分の足で立つこと、即ち「おとな」になる努力をすることが先であろう。自分の力で世界を相手に戦っている「おとな」企業の仲間入りができてはじめて「ルール」について語る資格があると言えるのではないだろうか。

グローバル・スタンダードを巡る競争
 さて、結局のところグローバル・スタンダードから逃れられないとするならば、次に議論するべきは新たなグローバル・スタンダードの形成に関わる問題である。グローバル・スタンダードがデファクト・スタンダードである以上、その形成には市場原理が働く。つまり、グローバル・スタンダードの形成それ自体がひとつの競争なのである。そして、その競争は企業経営において極めて重要な戦略的イシューとなりつつある。なぜならグローバル・スタンダードの形成において主導権をとることは、そのスタンダードがもたらす「ネットワークの経済性」を享受できるもっとも有利なポジションを占めることを可能にするからである。そして現在までのところ、この競争は米国あるいは米国企業の圧勝という結果に終わっている。その理由は米国が世界公用語である英語、世界基軸通貨であるドル、そしてIT(Infrormation Technology)の基幹技術という3つの強力な「デファクト・スタンダード」を手中にしているからと見て良いであろう。
 では、この先もグローバル・スタンダードは米国主導で形成されるのかと言えば、必ずしもそうとばかりは言えない。家庭用VTRなどエレクトロニクス製品のデファクト・スタンダードの形成に関する研究では、デファクト・スタンダードは世帯普及率2〜3%の時期にシェアで優位に立った規格がそのまま最終的にデファクト・スタンダードを獲得するという結果がでている(注7)。この研究結果の示唆するところはデファクト・スタンダードの形成のためにはいかに初期段階でシェアを高めるか、つまりそのスタンダードに同調してくれる企業の数を増やすかが決定的に重要であるということである。そのように見た場合、米国以外で新たなグローバル・スタンダード発信の可能性があるところと言えば、それは一体化の進むEU経済圏諸国の中からであろう。現に品質基準のグローバル・スタンダードである"ISO"はヨーロッパ発のスタンダードである。
 では、我が国はどうかと言えば、これも可能性が全くないわけではない。例えばアジアである。昨年来経済危機に瀕しているとはいえ、アジア圏は世界経済において重要な地位を占めていることに変わりはない。日本の主導によるアジア発のスタンダードがグローバル・スタンダードを獲得するということは充分ありえる話である。しかし、現状のままではこれは難しいであろう。なぜなら今回の一連のアジア通貨危機への対応を通じて、日本にはアジアにおいて経済的なリーダーシップをとる能力が決定的に欠如しているということが露呈してしまっているからである。これでは日本発アジア経由のグローバル・スタンダードなど夢のまた夢である。

守るよりも攻めろ
 さて、以上グローバル・スタンダードについてそれをデファクト・スタンダードとして捉えるという視点から考察を進めてきた。結論を言えばグローバル・スタンダードはその名のとおり世界市場におけるルールであり、そのルールは国内にも例外なく及ぶということと、反面そのルールは不変のものではなく、プレーヤー自身がルールの変更や新たなルールの形成に関与することも可能であるということである。だとすれば我が国が今後とるべき道はただひとつ、「守るより攻めろ」即ちいたずらにグローバル・スタンダードを忌避するのではなく、むしろ積極的に新たなスタンダードの形成に関与していくということに尽きよう。そしてそのためにまず最初になすべきことは規制緩和の推進による国内市場の開放である。なぜなら、グローバル・スタンダードの形成に関して発言権を持つにはまず世界市場にイコールフッティングな立場で参加することが前提となるが、自国市場の開放はそのためのデポジット(参加証拠金)だからである。そして開放された市場を通じて従来護送船団方式によって守られてきた「こども」企業を鍛え直す。このような反転攻勢なくして経済のグローバル化に対応した日本企業の競争力再強化、日本経済の再活性化はありえないと考えるべきである。そしてこうした変革を通じて我が国が世界市場におけるメインプレーヤーかつグッドプレーヤーとして世界の信認を得ることによってはじめて、日本の主導による新たなグローバル・スタンダードの形成ということも現実味を帯びてくるのである。
 繰り返して言うが、グローバル・スタンダードは単なるルール、しかも「事実上の」ルールに過ぎない。グローバル・スタンダードによって世界が「米国型」に収斂してしまうわけでもなければ、いわゆる日本型経営が全否定されるわけでもない。というより、そもそも日本型経営とはいったい何だったのかということをよく考えてみよう。少なくとも終身雇用や年功序列だけが日本型経営の特質ではないはずである。むしろ日本型経営の真髄とはかつて欧米企業が心底脅威に感じた、環境変化への対応力にあったのではなかったか。確かに永らく政府の庇護下にあってその能力を錆付かせてしまっている企業が多いことが、現在の日本経済低迷の原因のひとつであることは事実である。しかし、今まで見てきたように、同じ日本企業でありながらその能力をいかんなく発揮して世界に伍してプレーしている企業も多いのである。彼我の差はいったいどこから生じてきたのか。そのことを今一度再考することから「グローバル・スタンダード恐怖症」の克服は始まるのである。


[参考文献・資料]
1.『インタビュー・焦点−量の拡大、収益もたらす』1998年7月4日付日本経済新聞朝刊
2. 『回転いす−日本型経営は幻想』1997年7月15日付日本経済新聞朝刊
3.『特集・21世紀に輝く会社−「脱日本・超米国」型を目指して−』日経ビジネス1998年1月5日号
4.平成9年3月末現在。「平成8年度株式分布状況調査」全国証券取引所協議会
5.『企業統治、日本企業にも注文つける』日経ビジネス1997年8月4・11日号
6.『日本企業への監視強める欧米機関投資家』日経ビジネス1998年7月6日号
7.山田秀夫「競争優位の[規格]戦略」1993年ダイヤモンド社


98年度東洋経済「高橋亀吉記念賞」<テーマ:真のグローバル・スタンダードとは>優秀賞
週刊東洋経済98年11月21日号掲載

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